「祈る自分、祈られる自分」 04.04.25
コロサイ4:12
今年度の教会標語を「祈り、祈られる人」としました。「祈り」は、
信仰生活に欠かすことのできないことのひとつです。「祈り」に
おいて、神さまと向き合います。そこで、自分と向き合ってくださる
神さまを知り、神さまとの交わりが深められます。
「祈りは信仰者の義務だ」とも言われます(ルター)。
十戒の第3の言葉「主の名をみだりに唱えてはならない」は、
主(しゅ)の名を呼んではならないのではなく、いつも正しく神さまを
呼び求めることであり、キリスト者であろうとするならば祈るのが
私たちの義務であると言われるのです。
神さまが、私たちに祈りを求めておられるのであり(詩27:8)、
そのような祈りを重ねながら、神さまと深い関係を確かめ、信頼を
深め、素直になって、私たちの信仰生活は進められていきます。
「祈り」と言う時に、誰のことを祈るのでしょうか。
まず、自分自身が信仰者として整えられていくことを祈らなければ
なりません。
しかしそれだけではありません。神さまのことを祈ります(主の祈り
の前半)。
そして、今年度の標語で特に心に留めたいのは、他者のために
祈ることです。
主が教えてくださった「主の祈り」の後半部分は、「我らの」と祈る
のであり、自分だけでなく他者を含んだ祈りです。
エパフラスは、コロサイの教会の人達に向けられた神さまの恵みの
数々を思い起こして、それをパウロに伝えました(コロサイ1章)。
それから、コロサイの人たちのことを熱心に祈りました。他者のことを
祈るのは、まずその人への恵みを思い起こしながら、神さまが恵みで
満たそうとしておられる相手として祈るのです。
そうすることで、ルカ18章のたとえに出てくるファリサイ派の人の
ように、祈りの中で人を裁き、見下し、うぬぼれる罪から、放たれます。
人に祈ってもらうことは大きな力です。パウロも祈って欲しいと
何度も頼みました。
私たちは兄弟姉妹に祈ってもらうことを求めるべきです
祈り、祈られるところに教会の豊かな交わりがあります。